いつか黄泉へと連れ出して
原田左之助は酒癖の悪い男である。
こう表現すると誤解があるかもしれないが、酒を飲んだ彼が千鳥足で歩いた事はない。酒に溺れてその場で食べた物を吐き戻す隊士は何人も見てきたが、その中に左之助が含まれていた事は一度もなかった。
――ただ、酒が入るとほんの少し彼の雰囲気が明るくなるのだ。
常ならば感情を見せないその表情に柔らかな笑みを浮かべ一升瓶を片手に酒を飲む姿は、数々の男達を惑わせてきた芸者の女たちですら息を飲む。お猪口を片手に新八の肩に腕を置き二人で軽口を言い合う姿は圧巻で、食事を運んできた給仕たちは倒れ込んできた。ここまでは良いのだ。問題はこの先にある。
「それで切腹して出来た傷がこれでよ」
左之助が単衣を広げ袴を緩め始めて、自身の腹を見せつける。周囲が歓声の声を上げたのを合図に、新八がよっと左之助の肩を組んだ。
「相変わらず見事なもんだな、お前の腹の傷は!」
「ははっ、新八でも分かるんだな」
「んだとコラ!」
新八の声に、左之助はしれっとした顔でお猪口で酒を飲み進める。この様な酒の場の中心はあの二人だ。平助はあまり誰も手をつけない胡麻団子を口に入れながら、左之助の横顔を眺める。
男ですら惚れ惚れとする左之助の剛健な身体だが、彼の腹にはひとつ大きな切り傷が残っている。しかも相手に斬られた傷跡などではなく、切腹を試みて失敗した時の跡だと言うのだ。
ここで大事なのは切腹の痕が酒の場における彼の十八番と言うだけで、左之助自身がなぜ切腹をしたかなどと真実を口にする事はない。酒でこの様に腹の痕を披露する癖に、なぜ切腹をしたのかは毎回理由が変わるのだ。以前仕えていた藩主の食べる予定だった団子をうっかり食べたからと言ってきた時は、おもわず「雑だな……」と口にしてしまった。
勿論、言いたくない事は誰にだってあるものだ。平助自身、自分の出自など口にしたことはない。絶対に言葉にするものかと心に決めているからだろうか。酒を飲んだら気が緩んで言いたくない事まで口にしてしまいそうだ、と賑やかな二人を見て、絶対に酒には溺れまいと決意をする。
そんな二人を見つめていたところで、隣の総司がお茶を飲みつつ、平助の視線の先を確認してあららと肩をすくめる。
「まーた原田さん、腹の傷見せてる。相変わらずですねえ。……藤堂さん、三色団子食べないんですか? 食べないんですね? いただきますね!」
「あっ、こら、沖田くん!」
総司が素早く平助が最後に食べるために残しておいた三色団子に手を伸ばすので、上擦った声で彼女の行動を制止するために立ち上がった。
立ち上がっただけなのに、平助の身体は何故か畳の上に浮いていた。
「え」
一拍置いて首根っこが掴まれている事を理解し、足を思い切り後ろへと向ける。とは言っても狙いも何もない無差別な蹴りだ。誰に当たるでもなく、空振りをしただけである。抵抗も怒りも意味がないと察しそのまま力が抜けた平助に漸く後ろから声がかかった。
「たまには俺らとも酒飲めよ、平助」
平助の肩に当たった鮮やかな朱の髪に、そうだと思ったけど、と平助は小さく声を上げた。平助は(悔しいながら)小柄な体型だ。けれども馬鹿にされぬようにと鍛えてきて、筋肉もそれなりについている。そんな平助をこの様に鞠のように持ち上げてしまう様な男は、新撰組には一人しかいない。
「……原田さん、下ろしてください」
睨みつけても微動だにせずにっと笑みを深めるばかりの左之助の背中を思い切り叩きつけ新八がこちらへと駆け寄ってくる。
「左之助、いい加減にしとけよ。平助、悪ぃなって……お前らは甘味で盛り上がってんのか?」
そうこうしてる間に団子を食べ終えたらしい総司も立ち上がり「藤堂さんと水入らずやらせてもらいましたよ〜」と左之助に向かって笑って見せた。
「沖田先輩、俺らも平助借りていいすか?」
平助の意見はここには存在しない様だった。総司は左之助の発言に、首を傾げ不思議そうな顔をする。どこか釈然としない顔で「はあ」などとぼやきながら左之助の確認に頷いた。
「別に元々沖田さんのものじゃないんですけどね。なら代わりに永倉さん貰いますかね〜!」
「だとよ、新八。行ってこい」
どうやら新八の意見も存在していない様子だった。新八に憐憫の視線を向けている間に左之助がようやく平助を畳の上へと戻した。思ったよりも優しく下されて戸惑っている間に、左之助はさっさと部屋を出て縁側へと移動してしまう。
「……平助」
「? はい、永倉さん。なんですか?」
「あいつ、お前の事気にしてたからよ。まあ付き合ってやってくれや」
平助の頭を力いっぱい撫でた新八は、そのまま総司と歩いていってしまう。宴はまだ始まったばかりだ、幾らでも話題はあるだろう。新八の頼みだから、と平助もそちらへと振り向かずに縁側へと足を向けた。
ひやりとした外の空気が、熱気に包まれていた身体を冷やしていく。外の涼しさに小さく息を吸い込み、その勢いのまま左之助の隣に座った。柱にもたれ月を見つめながら酒を飲む姿は、先程まで切腹痕を見せびらかしていた男と同一人物だとは思えない静けさだった。
「おお、平助。来たな」
「あんたが僕のことを沖田くんから借りておいて何を言うんですか」
何が目的なんだと訝しむが、左之助は顔色変えずに酒を飲み進めるだけだ。それからいつの間にか取り出したお猪口に酒を注ぐと平助の前に差し出した。
ここで断るのが野暮だと言うのは平助にも理解出来る。渋々受け取ったところで、左之助は平助のお猪口に自身が持っていたものを軽く当ててそのまま一杯口につけた。平助もゆっくりと酒を口にすると、じわりと熱で舌を焦がしていくような感覚を覚える。
「……別に深い理由もねえが、たまにはお前と二人で酒飲むのもいいなと思ったんだよ」
――左之助が少し遠く感じる。
同じ組織に与している筈なのに、左之助は皆といると時々一歩離れた場所に立っているのだ。平助がその様に感じるのは何故なのだろう。その様に左之助との距離に気づくのは、どうしてなのだろう。
(……ここが原田さんの居場所じゃないんですか?)
口にすれば何もかもが崩れてしまう。不思議だけれど、平助はそう理解していて、ただ左之助の隣で酒を飲み込む事しか出来ない。左之助も何も言わずに酒を飲んでいるが、ふと彼の手が平助の後頭部へと伸びた。
「……原田さん?」
布が擦れ合う音がする。するするとそのまま彼の手の中へと落ちていったのは、平助の髪を結んでいた髪紐だった。髪を上でまとめていた紐は彼の手の中にあるから、肩まで髪が落ちてくる。
彼の真意が分からず、平助は左之助を見上げる。月光が照らす彼の顔は、なんだか寂しげに思えた。
どうして彼はそんなに苦しそうに息をしているのだろう。でもその姿には身に覚えがあった、それではまるで――自分の様だ。針の筵の中で生きているような、そんな息苦しさを抱えたままの姿で。
左之助にゆっくりと手を伸ばそうとしたが、左之助は平助の紐に口をつけると淡々と告げた。
「……平助、こういう時抜け出したくなったらお前の紙紐解くからな」
「いや、は? なに?」
ぱち、と平助が瞬きを繰り返す間に左之助はどんどんと酒を飲み進める。それから、平助の額に触れる。
そこに出来た傷は、平助の油断の象徴だ。あまり触られたくないものだから、力一杯彼の手を剥がすと、左之助は「んだよ」と笑うだけだった。
「だからお前は察して俺に付き合えよ」
「なんなんだ、あんたは……!」
理不尽にも程があると立ち上がり、平助は縁側から降りて月を見つめる。
金色だけが自分たちの事を知っていた。同じ寂しさを持っているのに、きっと違う苦しさで生きている。その事を分かち合う日が来たらいいのに。平助は仕方ないと肩をすくめて、そして呆れながらも左之助に頷いた。
「……分かりました。だから、原田さんも僕に分かるように合図をしてくださいね」
連れ出してあげますから。
その小さな声は、男の耳に届いただろうか。届いたらいいけれど。
平助は瞼を下ろし、空気に身を委ねながら呼吸を繰り返した。
終ぞ、そんな日は来なかったけれど。
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