ポラリスの口付け
――原田左之助の腹にある傷については、新撰組に属した人間なら誰もが知っている話だ。
切腹紛いをした上で、何故か死ぬ事はなく真っ直ぐの傷跡だけが残った。この話は酒を飲む度に聞かされており、本人よりも先にこの話をする者まで出てくる始末だった。
「いいか、お前ら! 原田さんはなあ、腹を切った上で生き残っているすげえ人なんだぞ」
新人隊士も増えて彼らを歓迎する場では必ずと言って良いほどこう語られるのだが、当の本人が止めに入らない辺り自分の事を何と言われてもどうでも良いのだろうか。当然これは褒め言葉であるのだから、平助が注意をすることでもあるまい。そうは言いつつも、おもわず左之助の姿を探すのは止められないことであった。
ほんの少し顔を動かすだけで、男は直ぐに見つかった。騒々しい宴会から少し離れ、縁側で新八と二人並んで月夜酒をする横顔を見つめているとその自然に気付いたのか、左之助が新八に何か耳打ちをしたかと思うと突然立ち上がってこちらへと近付いてくる。
あ、と思う間もなく左之助は平助に声をかける。
「平助、飲んでるか?」
そのまま正面へと座り込んだ左之助は、お猪口を片手に平助の顔を覗き込んだ。
「……いえ、僕は酒はあまり」
酒に口はつけずばら寿司をつまんでいたなどと素直に言えず、誤魔化すような返事をすれば彼の大きな手が平助の髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「下戸だもんな、お前」
子供扱いをされたような感覚を覚え、かっとなって左之助の手を無理矢理にどかして顔を背けた。
「原田さん達が飲みすぎなんです!」
「普通だろ、こんなもんだ」
表情も変えずに淡々と告げられておもわず眉を顰めた。そもそも左之助が喋る度に酒の匂いが平助の周りに渦巻いており、どうにも居心地が悪い。左之助はお猪口を飲みながら平助の横顔を眺めるだけなのだ。なんなんだよ、と声にはせず左之助の様子を伺う事しか今は出来そうになかった。
喧騒に包まれている筈なのに自分たちの間には沈黙だけが存在していた。なんなんだ、と拳を握り締めたところで新八が痺れを切らしたのか口を開く。
「左之助、平助! こっちに来い!」
手招く新八に二人して顔を上げたが、すぐに声を発したのは左之助だった。
「いいから待ってろ、新八。……平助、行くか?」
左之助の確認に対して、平助は唇を動かすこともできずに男を見上げた。突然出された選択肢に直ぐに答えられず、黙って畳を見つめていると左之助はもう一度平助の頭をぐしゃりと撫ぜて「気が向いたら来いよ。待ってるからな」とそのまま新八の元へと戻っていく。左之助の尻尾のように自由に揺れる後ろ髪に手を伸ばそうとして――平助の手は空を切った。
どうして自分はいつもこうなるのだろうか。ぐ、と拳を握り締めて息を吐く。
幾つになってもこの酒の匂いと宴の雰囲気に馴染めない自分に嫌気が刺すのだ。新撰組八番隊隊長、藤堂平助。その肩書きは確かな誇りであるというのに、その中にいる自分は歪な生き物の様にすら思えた。
この世に生まれてからずっと平助は誰の一番星にもなれずにいる。母の胎に存在してからずっと――。
男の声がこびりつく。酒を飲み笑みを浮かべる左之助の横顔を平助はうまく見つめることができなかった。
「だから、原田さんは死に損ねの左之助と呼ばれているんだ!」
◇
男の腹には一筋の傷跡がある。平助は右手でその腹をなぞると「どうした?」と左之助が上半身を上げて平助の身体を抱き留めた。身体を交えていたばかりで、ひたすらに熱い男の身体が生きているかの様に錯覚をさせる。
平助は油小路で死んだ事をはっきりと覚えているし、サーヴァントとして限界したこの身体はつぎはぎばかりのつまらない身体だ。果たして左之助がそんな身体を抱いていて満足をするのかは分からぬままだ。わざわざ口にする程、平助は身の程知らずではない。
「原田さん、この腹の傷は自慢ですか?」
色気のない回答だっただろうに、左之助はその平助の問いにしばらく黙っていたが「恥晒しだろ、こんなのは」と笑いながら平助の左手に指を絡める。義手では男の体温が感じられないのが寂しく思えて、平助は左之助の胸板に頬をくっつけた。
「けどまあ、生き延びたから新撰組の十番隊隊長として立てた。その上でこんなサーヴァントとかいうのになって、ついでに腹の傷が宝具にまでなるんだ。儲けもんみたいなもんだろ」
――平助は彼らに背を向けた。そして迎えたのが、あの雪の日だ。
けれど彼に手を伸ばせなかった平助は、今こうして左之助と手を繋いでいる。
「……原田さん」
「ん」
あなたの一番星になれたらよかったけれど、そうじゃなかったから平助は呆気なく死んだのだ。けれど、何もかもを裏切ってただの藤堂平助としてここに立った自分に手を伸ばしてくれたこの人が――いとおしいただ一人の男が死に損ねの人でよかったと素直に嬉しいのだ。
どうか、僕の死に顔を覚えていてくださいね。
こんな酷な言葉は口にはせず、ほんの少しだけ勇気を持って平助は左之助の胸に頬擦りをした。
「永倉さんと、原田さんと、酒を飲みたいです。僕は」
こんな事を覚えているのは平助だけだろう。少しの沈黙の後に、左之助が平助の顔をその大きな手のひらで包み込む。少しかさついた唇が平助を食む。ただ触れるだけのその接吻を何度か繰り返した後に、左之助は平助を腕の中に閉じ込めた。
「……言っただろ。待ってるってな」
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